幼少時代
出身地:東北・宮城県柴田郡 1979年生まれ
小さな頃からとにかくこだわりが強く興味をもトコトン追求したくなるタイプでした。
キン消し(キン肉マン消しゴム)やビックリマンシールが、当時は、僕ら子供に、大流行でした。
こだわりだした好きな物は全部揃えないと、気がすまない、中途半端が嫌いなそんな性格も、この串カツにも表れているのかもしれません。
そんな私もいつしか23歳になり、学生時代からずっとバイトでお世話になっていた造園業に就職して庭師歴がかれこれ7年になろうとしてた時でした。
なにか漠然とこのまま、この業界で一生働き終わっていいのかそんな事を考えていた時期でした。
楽しみと言えば、たまに休日に好きな仲間達を集め自宅の庭でやるBBQそんな日々の中、ふと目にした私の高校生の妹宛の専門学校のパンフレット何気なしに見ていたら、料理学校がありました。
そうだ、将来自分が店を出して好きな人達が私の店に食べに来てくれたら人生一生楽しい事が仕事になるだろう!
人生をかける自分の夢が初めて出来た瞬間でした。
しかし地元で今更、学校に通うのも恥ずかしいし、飲食店でいちから修行と言っても勉強したい店をも何もなく、大阪に知り合いもいるし、地元を離れ違う美味しい物を勉強したいのと、造園業の職人しか知らない自分が社会に出てどこまで通じるのか試してみたい。
地元を離れ大阪に修行にでる事を決めました。
入学前の半年前に一日体験入学があり、一週間知り合いの家に住まわせていただきながら、たくさんの美味しい大阪のお店に連れて行っていただきました。
その時に感じた、東北と関西の味の違いや食文化、人情に溢れる人柄。
もちろん串カツにも出会いました。
二度漬け禁止発祥の店新世界串カツだるまとの出会いでした。
すぐさま地元に帰り周りにめちゃくちゃ美味しいかった串カツの話をしましたが、たこ焼きお好み焼きならまだしも、串カツ文化を、まったく理解してもらえなかったのを今も覚えています。
好きなクルマも売り、半年間お金を100万貯めて、親にお金を借りて何とか大阪のあべの辻料理専門学校に入学する事ができました。
畳2畳の住み込み
夢を胸にいざ大阪に、一年間は、学校が斡旋してくれるアルバイトをしながら寮に住み込みが出来るアルバイト進学制度を利用しました。
今思えば、住み込みの畳(たたみ)2畳の寮から、全ては始まりました。
あまりの部屋の狭さに送った荷物がはいりきらず実家に半分送り返したのを覚えています。
ハシゴに登り植木をハサミで切る仕事から、包丁すら握った事がない私の飲食業界の一歩目でした。
学びの日々
日本料理専門で入学したので、料理の基礎を深く学ぶ事が出来ました。
毎日、朝四時〜5時に起き、店の掃除開店準備、学校に行くギリギリまで働かせる職場で学校の卒業生が大体社員でしたのでそれが慣わしのような習慣でした。
勿論学校から、帰っても店の閉店まで仕事でした。
部屋に着き、学校の勉強をしたら夜中2時また次の朝から、学校が休みなら仕事を一日中、仕事が休みでも学校があるそんな日々の一年間でした。
昔ながらの日本料理の下積みと言うなの修行、この業界の悪しき洗礼をしりました。時給換算なら、最低賃金の3/1ぐらでしょうけど、ただお金も知識も技術もない、私にあった物、それは、自分の店を必ず出す信念と夢だけでした。
デビューまでの日
専門学校を卒業後すぐに、串カツだるまに就職、毎日閉店後に、当時の社長、従業員達と居残り修行。
初の揚げ場に立つたまでかかった日は、14日目(当時の日記)にデビュー、お客様にはじめて私の串カツを 食べて頂く事が出来ました
ここからが本格な串カツ独立へ向けての学びの日々が始まったのです。
だるまの修行・20代
現在令和の新世界とは、似ても似つかない、治安が悪い、酔っ払い、無銭飲食、観光客、ファミリー層があまり寄り付かないそんな下町でした。
ただ仙台から来た20代半ばの大阪2年目の私には、全てが新鮮で、串カツ激戦区で長年ご商売をされてきた人情溢れる近隣の店主さん従業員さんや、新世界に通うお客様方に、日々、新世界の串カツとは、飲食業とは、カウンター商売とはなんたるかを、地方訛りもとれない、東北育ちの田舎者の私に親身に教えていただきました。
串カツの修行は、勿論ですが、地元民の当たり前と地方の私が感じ思う文化の違いホントにただただ有意義な日々でした。
職種、年齢、性別、みんなさん、バラバラですが、串カツのソース2度漬け禁止ただそれだけは、絶対守る。
お客様との距離もコの字型カウンター揚げ場が2つ18席だけのオープンキッチンでめちゃくちゃ近い、仕事をする、串カツの仕込みも、揚げる仕事姿も常に顔が客席から丸見え、お酒をススメられたら呑みながら会話し、仕事をする、何一つ人と人のごまかしが効かない人情の街で日々こなす。そんな現場(串カツ店内)でした。
独立前夜・30代
だからこそ日々の、ご来店していただいたたくさんの常連さん、新規のお客様との会話の中で感謝と真心の接客が自然と身体に当たり前に身につきました。
新世界には、大衆演劇があり、劇団のファンのお姉さん達がよく串カツを食べに来て下さいました。
そんなお客様方かの差し入れや会話がホントに楽しく、串カツ屋の揚げ場もまた、常連さんのファンが付く店の華型のでした。
串カツの伝票もなく、目の前で直接注文を聞き、串ネタを自分で取り、油で揚げ、揚げたての串カツを次々に手際良くお出しする。
一人で8人を相手にオーダーから調理、提供まで、オープンから閉店まで行列の店でした。
多い時には1500本近く揚げる日も、休憩の仮眠、家での就寝中の夢の中でも寝言で注文を聞いて串カツを揚げるくらいでした。
新世界にメディアの取材が増え、、どんどん観光客や、インバウンド、家族連れがGWには、最長四時間待ち、USJにも負けない人気繁華街になっていきました。
串カツ屋もどんどん増え新世界に新規参入大型店舗が町並みに溶け込み活気ある新世界へと変わっていきました。
人が主役の人情溢れる店から、ただの効率を求めたファミレスへ様変わりしていく経営方針への不満、この時には、独立へ向けての計画が着々と進んでいました。
タイミング的にも社員の私の独立が秘密保持契約や独立者への会社の縛り、衣、ソースなどのセントラルキッチンでの秘密製法するきっかけになり夢を持ち修行にくるには、得る物が厳しくなり始める会社の成長期とかぶりました。
信念があって飲食業をしている人、また飲食業をしていてその過程で信念が芽生える人。
いつか自分の好きな事が出来る店を持つやはりこれに行き着く気がします。
休みや有給休暇安定した給料全部無くしても、計り知れない価値があります。
それは、たった一回しかない自分の人生を他人の時間、他人の利益の為に働く事に縛られず、生きる価値を手に入れる事です。
繁華街から駅からも遠い悪立地の場所へ
オンリーワンの地域性地域密着型への違い
独立して、直ぐに取り組んだ事、健康と安心安全を串カツで、油をまず、動物性から米油へ、コレステロール値の低下と美容健康にもいいとされ、なにより油の香りで素材の邪魔をしない。
衣の研究、食物アレルギー対応できてアレルギーフリーの衣の開発。
店内禁煙、オープン当時(2009/12/6)数々のクレームから断念しましたが、近年禁煙の後押しもあり、当初のお子様連れも着やすい環境づくりがやっと出来る昨今になりますたが、同時に新型コロナウイルスと重なり合いお客様は、激減しました。
揚げ物の革命、ハイブリッド串カツ(ハイブリッドフライ製法の確立)、2度漬け禁止串カツ共有ソースの廃止(さらなる串カツの無限の可能性と食べ方の追求をしたくて)、特にここにはこだわりました。串カツの常に新しい提案をしていく事思った事を、思った味をを直ぐに試せる。
一つの串カツに無限の食べ方あり。
串カツの研究
楽しい食べ方表を作って調味料の組み合わせ(マリアージュ)を教えたり。
とにかく美味しいく楽しく串カツを召し上がって貰うことが天職と感じます。
その為には、ベース(核)になる串カツソースを研究する必要がありました。
有名店の串カツお持ち帰りをして、塩分濃度、糖分濃度を数値化して、五感を使い細分化したり、食の展示会に行っては、全国各地のソースを片っ端からソースのサンプルをいただいてはまた数値化して、組み合わせ味のバランスを試して、組み合わせオリジナルソースを作り、お客様に感想を聞いてノートに書きとめ、そんな事ばかりしてきた10年でした。
コロナ禍とテイクアウト需要
ハイブリッド製法の活躍
そして常連さんのお客様にも、たくさん教えていだきました。
激辛串カツを提案すれば、大阪激辛四天王にも選ばれ、のびーるチーズ串カツを提案すれば、520センチも伸ばしていただき、全国放送にもださせていただき、いいお客様が、うちのお店の歴史をずっと作りつづけていただきました。
最寄り駅からはなれ、繁華街でもない悪立地のこの店をこうしてやってこれたのも、応援していただけるファンが居るからこそ新しい事を楽しんで頂くために提案しつづけられているのだと思います。